【コラム2】日本人と宗教

先日の続きで「宗教」について論じます。

今日は「宗教」というと「アブナイ」感じがして「私は無宗教です」というのが無難な態度になっていますが、実はこれ、明治時代に外国からいろいろな思想が入ってきたり、新興宗教といわれるものが乱立したりしてからつくられたイメージなんだそうです。

そこで、明治以前の江戸時代まで、日本人が「宗教」という言葉をどのような意味で使っていたかを、今日は語ってみたいと思います。

そもそも「宗教」とは、「宗となる教え」ということです。

「宗」とは、家をあらわす「ウ」かんむりに「示す」と書きます。

家は生活・人生をあらわすといわれますので、「宗となる教え」とは、人生の柱を示す教え、とか、生活のものさしになる教え、という意味なのです。

いわゆる仏教のことを、古来日本人は「宗教」と呼びました。

今日の法律では、神社も寺院も、キリスト教の教会も天理教の教会も、新興宗教もみんな、宗教法人法のもと、ひとくくりにされていますが、その中、昔から日本にあるものというと、日本神道と仏教ですよね。

仏教は、インドから中国、朝鮮半島を経て日本に入ってきた外来のものですが、聖徳太子の時代に入ってきているので、古い歴史があります。

そのとき仏教にふれた人々は、「これは人生の柱を説いた教えだ」と感じ、仏教のことを「宗教」と呼んだのです。

有名な聖徳太子の十七条憲法に、「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり。すなわち四生の終帰・万国の極宗なり」という言葉がありますが、聖徳太子は「日本国民は仏教を学ぶべきだ」と憲法にまで定めました。「信教の自由」をうたっている今日の憲法からすると、これは驚きです。しかも日本神道を守るべき皇室の太子が言われたのですから、さらに驚くべきことと言えます。

一方、もっと前から日本にある、神道のことは「宗教」とは呼びませんでした。

神道は山海の神々に祈りを奉げるもので、特に宗となる教えは存在しないからです。

今日でも、お寺で和尚さんが法話(教えを話する)をすることはありますが、神社で神主さんが人を集めて教えを説くことは基本的にはありませんよね。

いわれてみればそうだな、って思いますでしょ。

さて、今日はちょっと長いですが、もう少しおつきあいお願いします。

話がより専門的になってきますが、みなさんにとっても、今後の人生において問題になるかもしれない大事なことだと思いますので、ぜひ読んで知っておいて頂きたい内容です。

「宗教なんて…」と思われるかもしれませんが、宗教に無関係と思っている人でも、人生のどこかで宗教問題に直面することが出てきますので、やっぱり知っておくべき問題だと思うわけです。

例えば、好きな相手が何か宗教を信じているとか。彼は信じていなくても彼の家族は熱心に信仰しているとか。家族が死んで葬式・墓をどうするか。海外に住むことになったとか。どうやら子供・妻が宗教を信じ始めたとか。…何かしら出てくるものです。一生それらの問題に無関係という人の方が少ないと思います。

だから「対処方法を知っておいた方がいい」のです。

日本人はよく「宗教にうとい」と言われます。

基本的に「無宗教」が多数をしめる日本において、宗教がらみの事件が世間を騒がせ、オウム事件など、あれだけ叩かれながらも今もなお信じている人もあったり、その後もさまざまな新興宗教が問題を起こし、「なんであんなバカなものを信じるのか」と思うようなものに、子供や家族がだまされて泣く人が少なくないのは、ひとつには宗教に対する無知が原因になっていると指摘する識者もあります。

それについては私も同感です。

私はこういう立場にいて、多くの人と宗教について話題になることがありますが、大体次の2パターンがあります。

ひとつは「宗教容認派」

いわゆる「どんな宗教でも、悪いことを言っているわけじゃないから」という考え方。

もうひとつは「宗教否定派」

とにかく「ひとつのものに凝り固まるのはよくない」という考え方です。

しかし、この正反対とも思える二つの意見には共通点があります。

それは「どんな宗教でも大体同じことを言っている。結論は同じだ」という点です。

容認派は、たとえ一見戦闘的に見えるイスラム教などでも、最終的に唱えるところはキリスト教や仏教と同じだろうから、本当はどんな宗教でも仲良くできるのではないか…という風に考える人が多いようです。

否定派は、どんな宗教も「自分の考えが正しい」として他を批判する姿勢を崩さない。その点は結局一緒なので、ひとつの宗教を信じることは自分はしたくない…と考えているようです。

両者とも、ある意味当たっている面もありますが、はたしてどんな宗教も同じなのでしょうか?

少なくとも、仏教を専門に学んだ私からは、そのようには思えません。

ちょうど、理数系のことが分からない私にしてみれば、相対性理論も量子力学も、微分積分も代数幾何も、コンピューターもロボットも、要するにみんな「科学者」がやることだとひとまとめにしてしまいますが、専門的に学んだ人からすれば、まったくの畑違いだと思うようなものでしょう。

なぜ、そのように「どんな宗教も同じ」となってしまったか。

それは「宗教」という言葉の定義に原因があったのではないかと思われます。

先日述べたように、一部融合した点はあるものの(日本史で習う本地垂迹説など)、古来区別がついていた「神道」と「仏教」。

西洋ではハッキリとカテゴリーが違う「キリスト教」と「仏教」。(西洋人にとって、神の出てこない仏教は「religion」ではありません)

どうみても同じとは思えない「オウム真理教」も、すべて「宗教」という言葉でひとくくりにしてしまったところに、大きな問題があるのではないでしょうか。

言語学を専門にしている人などあれば、ご意見を聞かせて頂きたいのですが、人間は物事を言葉によって認識します。「アップル」を「りんご」と翻訳した瞬間に、グリーンアップルは「青りんご」になり、信州りんごや津軽りんごと同じ種類のものだと認識されます。そうすると「似たような味だ」となり、味の区別のつかない人になると「同じ味だ」となってしまうのです。

神と私を再び結びつけるという意味の言葉である「religion」を「宗教」と翻訳してしまった明治時代の言語学者。その罪は大きいと指摘する国文学者の論文を読んだことがありますが、私もそう感じます。

私はどの宗教(現代日本で使われる意味の)が良いとか悪いとか言っているのではなく、まずそれぞれがどんなことを教えているのか、一応その区別を知っておかねばならないのではないかということを訴えているわけです。(そんなに力説することでもないでしょー、と思われるかもしれませんが、「宗教」と言っただけで誤解されるのは、けっこうたまらないものなんです…涙)

今日はちょっと熱くなってしまい、長々と失礼しました。

反論も当然あると思います。

これで一応、「宗教論」は終わりにして、仏教がどういうことを教えているものなのかを、季節の言葉とともに少しずつ紹介していきたいと思います。

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